September 27, 2005

浜松市の7新区名私案--平成17年7月20日提出済

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 浜松は近代工業・先端技術だけでなく歴史的都市でもあることを世界に発信すべし!

 今回の平成の大合併で、人口1万前後の田舎町が3つ4つ合併してかろうじて人口3万を越え、「~市」を名乗る例が続出しているが、やれやれ何度同じ間違いを繰り返すのか、と慨嘆せざるをえない。ただ、静岡県西部の3市8町1村が合併して誕生する新政令指定都市「浜松市」には、その先行きに少なからず期待を抱かせるものがある。というのは、現行の47都道府県という枠組みは、明治前期にはそれなりの必然性もあったろうし、それなりに機能もしてきたが、今ではもはや“無用の長物”と化している。戦後の地方自治制度の病弊は、そのほとんどは時代錯誤の都道府県制度を温存したことにある、と断言してもよい。

 47都道府県はやがて道州制実現の過程で解体・再編される運命にあるが、それに代わる枠組みとして広域政令指定都市がより住民に密着した形の行政自治体として機能することが期待される。今回の合併で唯一プラス評価できるのはその点だけで、さしづめ新「浜松市」が明治以来の陋習をどう脱却できるか、注目に値する。

 区名設定問題は、その手始めの課題であろう。これまで新設された新政令指定都市では軒並み、東西南北の方位称による機械的区分や「緑区」「中央区」など没歴史的・没個性的(あらゆる地域には個性があるのに)な新区名が恥ずかしげもなく採用されてきた。その病理現象は拙著『こんな市名はもういらない!』でつぶさに解剖しておいたが、どうか浜松市はこれら前車の轍を踏まないでほしい。

 新「浜松市」の市域は後述するように、古代以来の7郡の郡域に及んでいる。新区名に、これら少なくとも1300年の歴史を誇る古代以来の郡名を活用しない手はない。世界中の都市で、市名自体が1000年以上前の起源を持つ都市はそんなに多くはない。浜松は遠江国敷智郡の郷名として優に1300年の歴史がある。そのことだけでも歴史的都市として誇るに足ることだが、さらに市内区分の区名もそろって同じレベルの歴史的地名を名乗っているということになれば、これはもう世界中でも稀な例と胸を張ってよい。

 このような観点から、新「浜松市」の7区名について以下、古代郡名を中心にした私案を提示しておく。

<区名私案要項>

 解説の都合上(分かりやすさ)により、アルファベット順ではなく逆順すなわち周辺部から採りあげる。

<採点>

「正しい地名復興運動」の活動の一環として、地名情報資料室・楠原佑介は新市名・新区名について採点方式を策定しております(別紙ご参照)。新市名・新区名について、個々人の好悪の感情で新市名や新区名を評個するのではなく、歴史的伝統的地名の保存・継承という観点から客観的に評価しようとするものです。以下の新区名についても、それぞれこの採点方式により、点数付けできます(いずれもプラスの点数になる)が、今回比較の対象となる別案を提示しないため、あえて採点は避けます(もし別案が決まるようでしたら、即刻、双方の点数を発表し、どちらが妥当か、広く世に訴える所存です)。

[G区] 7月1日編入の天竜市・龍山村・春野町・佐久間町・水窪町の区域

<区名候補名の検証>

山香 (やまか) 古代の遠江国山香郡は平安前期の元慶5年(881)磐田郡を分割し設置された。山香郡4郷のうち大峯郷は龍山村大嶺、気多郷は春野町気田が遺称地と見てよい。また与利郷は春野町杉の居寄を遺称と見る説があり、その郷域は大井川中流右岸の川根町・本川根町にまで及んでいたとする説もある。だが地勢からして、大井川中・上流域は平安前期まで郡郷が未設定の地域だったと考える。またもう一つの岐階郷は読みも遺称地も不詳。この郷が佐久間町や水窪町に想定できるなら、古代の山香郡の郡域はこの[G区]にほぼ重なることになる。だが、この長野県境に接する山間地は、先の大井川中・下流域と同じく古代律令国家の版図に組み込まれなかった地区であろう。文化の遅れた僻遠の地ということではなく、平野部の水田稲作集団を中心に構成された古代国家にとっても、地元住民にとっても、山間の僻遠地を国家体制に編成するメリットは少なかったのだろう。ちなみに、当時の東国だけでなく畿内に接する紀伊半島や瀬戸内海の島々にも、郷が設定されず律令体制に組み込まれなかった地区は広範に広がっていた。

このように考えると、この「G区]を表現するにふさわしい歴史的地名は「山香」以外にはありえない、と結論してよかろう。

[F区] 旧浜松市北端部の都田地区と7月1日編入の引佐町・細江町・三ケ日町の区域

<区名候補名の検証>

 引佐(いなさ) 古代の遠江国引佐郡は浜名湖の支湖である引佐細江の沿岸と、それに注ぐ都田川本・支流域を含む一帯。この[F区]に区分された区域のうち、旧・三ケ日町域は古代~中世には浜名郡の一中心であった。近世初期、この浜名郡北部(のちの三ケ日町域)は敷知郡、明治29年以降は引佐郡に編入された。つまり[F区]のうち旧・三ケ日町域は古代~近世には引佐郡ではないが、それでも近代の100年余りは「引佐」郡に属したから、この吉代以来の郡名を忌避する理由にはなるまい。

 すなわち、この[F区]を表現する歴史的地名としては、まず「引佐」を挙げなくてはならない。

[E区] 旧浜松市の西半部と7月1日編入の舞阪町・雄踏町の区域。

<区名候補名の検証>

 敷智・敷知(ふち) この[E区]は、古代の遠江国敷智郡の君域から浜松(浜津)郷を除外した区域にほぼ相当する。「敷智」郡の名は「淵」と1文字で表記された例もあるが、語源はむしろ「縁」で浜名湖東岸を縁取るように延びる三方原台地の縁辺を表現したもの。台地縁辺は全国どこでもそうだが、湧水に恵まれ、水田稲作の最適地である。浜名湖東岸は出入りに富んだ沈降海岸で、閉鎖された淡水湖の時代にも今切口で海と繋がった時期にも安全に豊冨な漁獲が見込まれる漁業適地でもあった。また、古代の東海道は本坂峠越えで遠江国に入り、浜名湖北岸から東岸を経るルートで三方原を迂回し、天竜川(当時は麁玉川)下流を渡って現・磐田市にあった国府に向かっていた。敷智郡10郷は、そうした農耕・漁労の適地と交通の要地に成立した郷であったろう。

 なお、「敷智」とは現代人にとっては耳憤れない地名表記で、違和感を感じる向きもあるかもしれない。しかし「敷」という漢字は常用漢字内で、「フ」という読みもその音訓表に採用されており、「敷設(ふせつ)」という熟語は義務教育段階で必ず教わる。今回の合併では新奇を衒って重箱読み・湯桶読みの新市名が続出しているが、それらに比べれば「敷智」は和語のフチ(縁)の2音節を漢字2字の字音を借りて表記した借音地名であるから、『万葉集』以来、日本語固有名詞の漢字表記法として定着してきた伝統的表記法である。パソコンやワープロで「フチ」と入力しても「敷智」という字は今はすぐには出てこないが、他の合併新市名と同様、地名用ソフトが改定されれば必ず一発で転換できるようになるから、何も心配はない。

[D区] 旧浜北市の区域。

<区名候補名の検証>

 麁玉(あらたま) 古代の遠江国麁玉郡の郡域は、三方原台地の東縁と当時の麁玉川(天竜川の旧称)の流路の闇に広がる沖積平野を占めていた。当時の天竜川(麁玉川)は二股で山地から流れ出て(二股とは川の分流地点を示す)すぐ幾筋にも分れて乱流して流れていたらしい。「麁玉」とは「河川の流路が定まらず網目状に乱流する」状態を表したものか。あるいは、漢字「麁」は「粗」と類義らしく、その乱流する流路の間に陸地(自然堤防・微高地)がまばら(粗・麁)に点在する様子を示した地名でもあろう。ちなみに、手網のことを今でもタマというが、武蔵国埼玉郡埼玉郷や同国多摩郡を流れる多摩川のタマも、こうした「網目状流路」を表現した地名である。

「ナイルの賜物」という言葉がある。エジプトのナイル川は毎年のように洪水を起こしたが、それによって下流に広大な沃野を形成し、古代文明を育んだ。チグリス・ユーフラテスのメソポタミア文明、インダス川流域のインド文明、黄河・長江の古代中国文明もみな同じ条件に恵まれていた。遠江国の古代史は、麁玉川のつくった大沖積平野の開拓史抜きには語れない。

古代の麁玉郡の郡域は古墳群など古代遺跡の分布状況から見ると、現在の馬込川沿いに南に延びて、浜松市北東部の半田町から有玉地区に及んでいたらしい。ところが、この麁玉郡の区画は中世~近世にかけて徐々に縮小され、明治12年の新郡区編制時には5カ村(6村とも)を数えるだけになっていた。その5村が明治22年に合併、麁玉郡麁玉村(1郡1村)を名乗ったが、郡域としては狭小に過ぎ、明治29年に引佐郡に統合されている。この時の「麁玉」の村名は今も小中学校名や農協支所の名に残されているらしいが、そうした100年余りの近代史の経緯にこだわることなく、ここは千数百年前の『万葉集』ほか古記録に登場する由緒正しい古地名として再評価し、区名に採用すべきであろう。古代の郡域と必ずしもぴたりと整合しないが、その点を差し引いてもなお高い点数で評価される区名になる。

 なお「麁」の字は「鹿」の字を3つ重ねた文字の異体字(略字)で常用漢字表外だが、ワープロ用漢字としてはJIS規格第2水準漢字表の部首「鹿」の部にコードNo7346として登録されている。私は工業技術院の技術系実務官僚が文字の規格を定めているという我が国の文字(文化)政策の現状には危機感を抱かざるをえないが、そのJIS規格が「麁」の字を採用したのはひとえに古代の遠江国麁玉郡の存在を意識したからにほかならない。この文字を今に生かして使わない手はない。

[C区] 旧浜松市の北東部

<区名候補名の検証>

 長上(ながかみ) 遠江国長田郡は天竜川(当時は麁玉川)下流域に置かれた郡で、藤原宮跡から「長田評」名の木簡が出土しており、大宝元年(701)の大宝令以前に設定された古い郡(大宝令施行以前は「~評」と称した)であったろう。郡域が広大で、おそらくは変転する麁玉川の流路の関係もあって和銅2年(709)に長上(ながのかみ)・長下(ながのしも)の2郡に分割された。長田郡の範囲は現在の天竜川右岸の旧浜北市南東部から南の遠州灘沿岸までおおむね馬込川の流路以東で、一部は天竜川左岸の磐田市・豊田町・竜津町にも及んでいたらしい。長上郡ど長下郡の位置関係は長上郡が北、長下郡がその南側の河口近くを占めていたようである。ただし、多くの郷名が後世の開発の進展のせいで伝承されず、長上郡・長下郡の境界は判然としない。大雑把にいいえば、今回の行政区区分案で採用された「B区」と「C区」の境界が期せずして古代の長上郡・長下郡の境を踏襲していると見てもよい。

 したがって「C区」の名称は古代の郡名を復活するのであれば「長上」とすべきかもしれない。しかし問題は「長上」という称は本来、「長田上」の略称であるが、その呼び方をどうするか。『和名抄』を基準にすれば「ながのかみ」になるが、『延喜式』では「ながかみ」と呼んでおり、中世以降は「ながかみ」が一般的であったらしい。また、もう一つの問題は「長上」と「長下」はあくまでも対になって使われて初めて意味をなすものであるから、この[C区]を「長上区」とすれば、次の[B区]は自動的に「長下区」としなければならなくなる。もっとも[B区]の東半分は古代から中世までは確かに長下郡の領域だったと思われるから、あながち根拠なき暴論と退けるわけにはゆかないだろうが。

 長田(ながた) それやこれやを考えると、この[C区]は和銅2年以前の古い郡(評)名を採り「長田区」とする手もある。[C区]の南部には和田地区が含まれるが、この「和田町」は昭和30年、元の大字・永田を改称した町名である。この地は江戸時代は長上郡永田村、中世には蒲御厨内の長田村で、『和名抄』に記された長上郡長田郷に遡り、すなわち和銅2年に2分割される以前の長田郡(評)の郡名の原点であった。[C区]の区画内に古代の長田郡・郷の原点が存在する以上、この区は「長田」を名乗る資格は十分にある。ついでに、町名のほうも根拠不確かな「和田」から元の「永田」に戻すべきだし、いやいっそ古代・中世の「長田」を復元すべきど考える。関連して、今回[B区]に属することになった浜松市長田町は、昭和26年「長十郎新田」の省略形として新設されたものだが、古代以来の歴史的地名「長田」と紛らわしい。即刻、改められるべきである。原形の「長十郎新田」に戻すのは住民の同意が得られず無理というのなら、同じ省略形でも「長新田(ちょうしんでん)町」とか「長新(ちょうしん)町」などとする手もある。もう一つ、今回[E区]に入る浜松市庄和町は旧・庄内村の大字・和田で、昭和41年の浜松市編入時に前記した[C区]の和田と抵触するため「庄和町」に改名されたもの。今回の行政区新設の際、こうした過去の地名政策の瑕瑾も修正されるべきは当然である。

[B区] 浜松市街地の南東部(ほぼJR東海道本線以南)

<区名候補名の検証>

 長下(ながしも) この[B区]の東部は古代には長下郡に属し、西部は敷智郡の内で栗原駅とそれに付随する駅家郷が置かれた地と思われる(あるいは敷智郡の郡衙もこの付近に置かれていたとすれば、城山遺跡出土木簡記載の「敷智郷」は駅家郷の前身か)。したがって、「B区」の西半(面積にすれば3分の1程度)は明らかに敷智郡に属するが、残り3分の2を占める東部は長下郡に含まれる。前項の[C区]を「長上区」とした場合、この[B区]は必然的に「長下区」とすべきだろう。

 浜津(はまつ) 敷智郡浜松郷の別表記。『和名抄』高山寺本や伊場遺跡出土の木簡に「浜津郷」の名が記されていることについては議論があるところだが、私はこの地名はハマ(浜)・マ(闇)・ツ(津。ただしこの「津」は湊の意ではなく「唾」と同じく「水分が湧き出す=湧泉地」が原義)という語構成で、砂丘列の間に湧く泉=池塘を表現した地名と見る。水田稲作に水は不可欠で、砂丘列の裏手の細長い沖積地の奥には泉が湧いて池塘ができており、真っ先に開田が図られた地であった。水路によって下流の海跡湖や海と結ばれているから、水運機能ももちろんあった。[C区]を「長田区」とした場合、[B区]のほうはこの「浜松」の別表記「浜津」が有力な区名候補となろう。

[A区] 旧浜松城下町と浜松城地、城地北方の三方原台地上の新市街地

 浜松(はままつ)・浜車(はまつ) [B区]を[長下区]とした場合、この[A区]の区名候補にはまず市名の「浜松」が第一候補になる。政令指定都市の区名で市名と同名の例は川崎市川崎区の前例があるから、浜松市に浜松区があっても何も差し支えはない。だが市名と同じ区名にいささかの違和感があるならば、躊躇することなく同地別称(古称と見てもよい)の「浜津」を選択すべきだろう。

 引間(ひくま)[B区]を「浜津区」とした場合、この[A区]の区名をどうするか、なかなか難問になる。「浜津」と「浜松」を併存させる手もあるが、「はまつ」と「はままつ」の発音が類似しすぎていることが難点。ならば中世の宿名である「引間」の名を使ってはどうか。中世の浜松荘の中心は引間であったらしく、元亀元年(1590)徳川家康が曳間古城を拡張して浜松新城を築いたというから、当時の引間(曳間)は現在の曳馬一~五丁目(明治22年成立の曳馬下村の一部)よりはるかに広く、浜松城の城地と城下町を含み、あるいは古代の浜津(浜松)郷全域に相当する地名だったかもしれない。その点、現在の町名の「曳馬」ではなく中世の表記の「引間」を使えば誤解は避けられる。

 また、この[A区]はすでに現在でも人口は24万人超となっており、いずれ分区は必至と思われる。その場合、分割する新区は[F区]の三方原地区を含めた台地上の地区をまとめ、区名には「三方」を採用すべきであろう。

「中央区」はもうやめよう!

 さらに付言しておくと、行政区名に「中央」を名乗るのはとても賛成できない。行政区画用語として「中央」が使われたのは昭和22年の東京都中央区が最初だが、東京の行政区(2ヵ月後に特別区)の名称として公認されたことで、戦後の合併新町村名や住居表示の新町名・新地名、政令指定都市の行政区名に大氾濫する結果となった。今から21年前の昭和59年、私は小冊子「地名・町名変更の実態」で全国の「中央」「中央町」165カ所を分析し、その実態が①市街中心地、②中心商店街、③市区役所所在地、④交通中心地、⑤市域のほぼ中央、などさまざまであることを報告しておいた。こんな安直な「中央願望」丸出しの新命名がロクなものであるはずがなく、事実、今や地方中小都市で「中央」を名乗った商業地区は軒並み、シャッター商店街と化しつつある。「中央」の名で地域に付加価値を付したつもりなのだろうが、そういう発想こそ“バブル願望”そのものであり、世界も日本ももうそんな願望が通用するような時代でははないことはいうまでもない。だがしかし、その後も大阪市中央区(平成元年。東区+南区)、千葉市中央区(平成4年)、さいたま市中央区(平成15年)など政令指定都市の新区名が新設され、今回の平成の大合併でも、愛媛県四国中央市(平成16年)・岡山県吉備中央町(同)・山梨県中央市(平成18年2月20日予定)など、いずれも世の顰蹙と嘲笑を買う例が続出している。いわば「“中央”の大安売り」とでも呼んでよいような現象だが、この期に及んで「中央区」などを新設するのは物笑いの種になること必至だろう。

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